2010/09/10

芸能や人々の流れと多層性

アーティストがある作品の手法を見出す時の潜在的な力をリサーチによって高めることができると思った。物事の記号的な認識を解体し、自分のウチにある欲求に方法を掴ませ、可能性の幅を広げることができる。なの「Asia Interactive Research」ということを始動しようと思っている。
日本でも呼びかけて少しずつ始めている。手始めに、相模原市の鳥屋の獅子舞を習った。

「日本の伝統芸能や民俗芸能のリサーチをしている。
その延長線上で日本以外の国、主にアジアの様々な地域にリサーチに行く。」
こう表現すると切り口としてはとっても大雑把だ。

例えば「ファンタジーについて」
とか
「無意識の領域について」
とか、そういった切り口で進んだ方がクリアーなことかもしれないとは思いつつ、自分がなぜ興味を持っていて、何を手探りしているのか自問自答する。

「日本」という領域(あるいは国家というの)は、政治的な事情で生じた境界の内側ではあるけれど、実際に認識している像はひとつの幻想だ。集団的に洗脳されている。または、依存している。そして逸脱できない。だけど、様々な言葉、民族、土地に根ざした文化はどれも流動的で多層的だし、それは人工的に引かれた国境の内側にまとめて理解できるような物でもない。だから、記号的な認識を解体し、その「流れ」や「層」を感じたいのかもしれないと思う。たぶん、私自身に繋がる何かとして。

ある芸能が生まれたり展開したりするときに起きている事、それは、その時代に起きている何かに対する身体的な反応だったり抗い(人に好きなように操られないでいたい。何かに従属したくない、という感覚)だったりする。
そして、人々の後ろ盾となるような神聖な何かと接触する。それらは共同体的な自治的領域(反権力的な)で起きる。
その神聖な何かというのが、土地によって多様で、多層的で、異質でもあり共有できる要素もある。(手塚)

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