番楽については、神楽と同じようなものみたいですね。
ただ、ネットで調べたら神楽は大方女舞なのに比し、番楽はすべて男舞である。と書いてありました。
エビスさん
番楽の映像に出てきたエビスさんですが、日本では中央から見て辺境の地である関東の住人を「東エビス」などと言ったそうで、中国では異民族を示す「戎」「夷」「胡」という漢字が日本語のエビスに当てはめられたのはエビスにもそのような意味があったからなのかもしれないそうです。一方、古事記に出てくる「蛭子」がエビスと読まれて、(海辺への漂着物全般を蛭子と同一視してありがたがったりして)「蛭子神」すなわちエビスを祀る神社が各地に立ちました。中でも兵庫県の「西宮神宮」が有名で、このすぐ近くに人形を操る「傀儡(くぐつ)」たちが平安時代の頃から住んでいました。「えびすまわし」などと言って人形繰りによって、エビス信仰を全国に広めたそうです。各地の民俗芸能にエビスが登場するのはその影響なのではとのことです。神道では、「事代主神(ことしろぬししん)」をエビスだと言ったりしたそうです。
山伏
番楽の元となったのが山伏の人たちだということですが、山伏を始め、仏教の寺院や僧が、日本の古い芸能の発祥に関わる場合が少なくない気がしています。これらは、中世当時の政治的中心からは「無縁」の、つまり別の哲学や論理によって民衆との関わりを持っている、といった背景があるように感じます。また、田植えにまつわる祭りを始め、下層民の共同体意識によって、ある意味で権力に抗うような力を誇示する側面もあったようです。(地主の田植えによる祭りであっても、決して地主の言いなりにならないというような気概があったようです。)
ある時期までは、芸能自体が反中心主義的な(例えば、当時の原住民や抑圧された賤民や移民たちの存在を抑圧する勢力に媚びない)力強さがあり、それを網野善彦氏は「無縁」の場と呼んでいて、私はいい意味での「自治的」なエネルギーであると感じます。江戸時代にはそういった状況が変化し、様々なものがある程度中心主義的に移行して行ったようです。それが明治の近代化で決定的に「反中心主義的文化」や「自治的なエネルギー」を根絶やしにされた印象があります。(手塚)
アーティストがある作品の手法を見出す時の潜在的な力をリサーチによって高めることができると思った。物事の記号的な認識を解体し、自分のウチにある欲求に方法を掴ませ、可能性の幅を広げることができる。なので「Asia Interactive Research」ということを始動しようと思っている。
2010/09/16
鰄渕(かいらげふち)番楽
今年の夏に僕の地元秋田県・能代市・鰄渕(かいらげふち)で毎年開催されている神楽を撮影してきたので、Youtubeにアップしました。
能代市は広いので、僕も調べるまで、鰄渕、という地名すら聞いたことがありませんでした。
神楽の名前は“鰄渕番楽”といいます。番楽というのは番楽というのは山伏神楽の東北地方の呼び名だそうで、日本海側では番楽、太平洋側では山伏神楽、権現舞と呼ばれるそうです。
何で番楽と呼ばれるようになったのかまだ調べていないのですが、どうやら、秋田県の民俗芸能にだけ番楽という名前をみつけます。もしかしたら他の地域にもあるのかもしれませんが、まだ見ていません。
鰄渕番楽について詳しくはこちら
鰄渕についてはこちら↓
映像は1~10まであるので、全部見ると二時間近くになります。途中に老人会のハーモニカ演奏があったのですが、それは入っていません。地元の近所の人たちだけが三十人くらい集まっているような現場でした。
舞に同じフレーズが何度も登場するので、見ていると覚えてしまいそうです。
いろいろ分析して書きたいのですが、とりいそぎ。(捩子)
能代市は広いので、僕も調べるまで、鰄渕、という地名すら聞いたことがありませんでした。
神楽の名前は“鰄渕番楽”といいます。番楽というのは番楽というのは山伏神楽の東北地方の呼び名だそうで、日本海側では番楽、太平洋側では山伏神楽、権現舞と呼ばれるそうです。
何で番楽と呼ばれるようになったのかまだ調べていないのですが、どうやら、秋田県の民俗芸能にだけ番楽という名前をみつけます。もしかしたら他の地域にもあるのかもしれませんが、まだ見ていません。
鰄渕番楽について詳しくはこちら
鰄渕についてはこちら↓
動物地名-ウグイ
魚名は地方によって非常に異なっている。
またその魚名を宛てる漢字、国字の読み方、内容もまちまちであることから、しばしば混乱を生じかねない。
愛知県海部郡弥富町の鯏浦(うぐいうら)はもと魚に成のうぐい浦と記していたのを、江戸時代の役人が鯏浦と誤記して以来、それがそのまま通用するようになったという。(「愛知県海部郡史」)。
鯏は蜊(あさり)の誤用とする辞書がある一方、鯏はあさりを指すが、うぐいとも読むと述べている辞書もある。
鯏浦はかつて木曽川の河口に面していたというし、またハマグリの名所の桑名に近いところから、アサリも採れた漁村ではなかったかと思うが、地名の由来を確かめる術はない。
秋田県能代市の鰄淵(かいらげふち)は桧山川の下流域にあるが、かつては米代川沿いにあり、ウグイがよく集まる川岸であったという古老の言がある。能代市の縄文時代の貝塚からはコイやフナ、サケの骨に混じって、ウグイの骨がたくさん出る。
江戸時代の鰄淵村は、もと田尻村と称していたのを、延宝七年(1679)に、今の地名に改めたという。
ある辞書には、鰄は魚に成の字の誤用とあるから、鰄淵は魚に成のうぐい淵のつもりでつけた地名にちがいない。
能代市に隣接する琴丘町にも鰄淵という地名があるが、そこは三種川の支流である小又川沿いにあり、ウグイがよく集まる淵だという。
鰄淵の地名の由来については別の説もある。このあたりは佐竹藩の重臣であった梅津政景の知行地であり、新田開発を行ったところであるから、良質の田を開いたことを記念して、開良所(かいらじょ)に通じる鰄淵の名を付けたという説である。
鰄淵は庶民ではなく、学識のある者の命名にかかわることはまちがいない。一説として紹介しておく。
鰄は梅花皮とも書き、東南アジア産のカイラギサメの皮で、刀の鞘の装飾に用いる。梅花形の硬い粒状の凸起がある背面中央部の皮を用いる。
南方熊楠によると、紀州田辺にウガという魚がいて、蛇に似て身長く、赤白の横紋があって非常に美しく、尾が三つに分かれ、真ん中の線だけが、数珠のように玉を貫いているという。漁師はこのウガの尾を切って船霊に供える。
ウガは新宮市の三輪崎ではカイラギと呼ばれているが、それがカイラギサメのことであるかはわからない、と熊楠は言っている(「続南方随筆」)。
しかし熊楠の説明を聞くかぎり、ウガはカイラギサメではない。それについては「長邑と宇賀の郷」の項で記してある。
いずれにしろ能代市の鰄淵がカイラギサメと縁のないことは明白である。
岩波新書「続 日本の地名」より
映像は1~10まであるので、全部見ると二時間近くになります。途中に老人会のハーモニカ演奏があったのですが、それは入っていません。地元の近所の人たちだけが三十人くらい集まっているような現場でした。
舞に同じフレーズが何度も登場するので、見ていると覚えてしまいそうです。
いろいろ分析して書きたいのですが、とりいそぎ。(捩子)
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